お願いフルーツ「その他」

表現と分厚いフィルター

表現と分厚いフィルター
1997年にリリースされた
大滝詠一の
「幸せな結末」という曲が
好きです。

ドラマの主題歌にもなっていて、
そのドラマのほうが
印象に残っている方も
多いのではないかと思います。

私はドラマのほうは、
観ていないのですが、
当時よく耳にして、
なんとなくいい曲だな、と
思っておりましたので、
改めてしっかり聴いてみたところ、
歌詞やらメロディやら、
歌い回しやら声やら、
どれをとってみても、
バチーン!と入ってきたものです。

あの世に1曲だけ
持っていけるとしたら、
間違いなくこの曲を
持っていくだろうと思います。
それが私の幸せな結末です。

時は流れ、
いまの仕事に就き、
(ラジオのお仕事)
音楽を聴く機会が増え、
好きな曲も増えてきました。
10年ほど前でしょうか。
須藤薫さんの
「あなただけI love you」
という曲を聴いたときも、
「いい曲だな」と思いまして、
調べてみたら、
作曲が大滝詠一でした。

これこそが、
表現者の理想ではないでしょうか。

忙しい世の中、
我々は何か表現に触れたいとき、
無作為に選ぶということを
ほとんどしなくなりました。

私の場合ですと、
須藤薫の曲に出会ってから、
大滝詠一作曲の曲を調べました。
松田聖子「風立ちぬ」
吉田美奈子「夢で逢えたら」
森進一「冬のリヴィエラ」
ほかにもいろいろありますが、
ことごとく、
好きだと思っていた曲だったので
驚きましたが、
もはや、
大滝詠一作曲だと知らない頃の
ピュアな気持ちでは
聴くことはできなくなりました。

大滝詠一作曲だから
いい曲なのだ、という法則のもと、
聴くことしか
できなくなってしまったのです。

別に悪いことではないと思いますが
昔はもっと純粋に、
この曲たちのことを
好きと思っていたのに、
余計な情報を入れてしまったな、
とも思うわけです。

しかし、
忙しい世の中は、
この「余計な情報」があるほうが、
何かと渡りやすくなっています。

表現に出会って情報を求めるのは
非効率で、
情報に出会って表現を求めるほうが
効率よく自分の好きな表現に
辿り着くことができます。

おかげで、
余計なフィルターがないと、
好きな表現に辿り着けないという、
ねじれが生じてしまいました。

いま、ほとんどの人が、
このフィルター越しにしか、
表現を受信できていない気がします。
これは好きなものを
選り好みできるので
合理的ではありますが、
いっぽうで好きじゃないものを
完全に排除してしまうことに
なります。

センスが合わないな、
という人間の表現は、
全てシャットアウトできてしまう。
そこにひょっとしたら
在るかもしれない
めちゃくちゃ面白い表現に
出会う可能性は極めて低くなります。

そうやって
余計なフィルターによって
表現を選ぶことに慣れていくと、
逆に「◯◯さんのやることは
面白い。さすがだね!」と
なんでもかんでも
手放しで褒めてしまうことにもなる。

とりわけ、
その人の表現を知っていること、
それ自体がステータスになるような
表現者については、
「その人だから」という、
ただ1点の情報のみで、
「よい」と
信じ込んでしまいがちになるのです。
(自分の感覚に絶対の自信を
持っている人に限って、
こういうことをしがち。)

私なんぞも、
大滝詠一作曲一覧を
調べてしまったがゆえに、
「全部いい曲」に
思えてしまうことになり、
何も知らずに「よい」と
思っていたあの頃には
もう二度と帰れないのです。

このような落とし穴に
陥らないためには、
好きな表現者に対してほど、
厳しい査定をすること。
そして、忙しくなりすぎないこと。
これが大切なことと思います。

そうしたことを繰り返すことで、
気づかないうちに
分厚く分厚くなってしまった
余計な情報フィルターを
外すことはできないまでも
幾分、薄くすることはできるのです。

分厚いと、
ちゃんと感じることはできません。
薄ければ薄いほど、
気持ちいいはずです。
コンドームのようなものですね。

私の表現は、
分厚いフィルターによって、
けっこういろんな方に
弾かれまくっておりますので、
そういった皆様にも、
ぜひ戻ってきてほしいものですが、
残念ながら、
そういう人たちは、
この文章を読むこともないのです。

おまえらが思ってるよりなー、
俺はなー、
面白いんやぞー。
あほー!!!
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