お願いフルーツ「その他」

カジュアルな差別

カジュアルな差別
差別の問題が
取沙汰される現状に暗くなりますが、
自分のなかに
その種が無いかといえば、
絶対に無いとは言い切れません。

人種や国籍、肌の色で
差別ということはしません。
しかし身の回りでは、
もっとカジュアルな差別が
いくらでも存在します。
カジュアルという表現が
合っているかいないかは
この際置いておいて。
 
私がいまなお、
差別される側になるのは、
音楽人と相対するときです。
自分は「感性の乏しい人間」という
レッテルを貼られているがゆえ、
相手にされることがなく、
すぐ近くで
「涌井には
どうせわからないだろうけど」
という空気を出しながら
音楽の話をされたりする。
私は完全に排除されているのです。
 
マニアックな話題で
盛り上がるときというのは、
そこに「わからない人」か、
もしくは
「わからないであろう人」が
いるほうが、
饒舌になったりすることが
ないでしょうか。

それは高校生が
先生にはわからない符号のように
若者言葉を使いながら
コミュニケーションをとるのにも
似ています。
先生の存在によって、
その符号がイキイキと
してくるという経験は、
誰しも持っているのでは
ないでしょうか。
 
このときの先生の気持ちはといえば、
また若造どもが
よくわからんことで
盛り上がっとるな・・
くらいで終わるのかもしれませんが、
この先生を
クラスメイトの涌井くんに
置き換えたとき、
いかに残酷なことをしているのかが
理解できる人と
理解できない人がいます。

理解できない人の、
クラスメイトの涌井くんに
対する行為は、
カジュアルな差別と
いっていいのではないでしょうか。

私は 齢四十になりますが、
いまだにこの手の
カジュアルな差別に
苦しめられることがあります。
しかし、同時に自分自身、
カジュアルな差別返しを
しているのではないか
という時もあります。
 
若い頃に仲間外れにされたり、
無視をされたりという経験がないと、
あまりこういうところに
頭が回らないもの
なのかもしれません。

逆にそうした経験があるからこそ、
過剰に自分を被害者に
仕立てあげてしまうところも
自分にはあるのかもしれません。
 
いまアメリカで、
ひいては世界で
問題になっている差別とは、
まったく異なるもの
なのかもしれませんが、
似ているところも
あるように思います。

とはいえ、
到底同列に
扱うべきことでもないので、
カジュアルな差別と表現しています。
カジュアルな差別を
している人間からは、
とても強い活力を感じます。

自分は少なくとも、
この涌井という人間より、
「音楽」というジャンルにおいて
優れているという
実感がそうさせるのでしょう。
仲間内で盛り上がっているだけでも
面白いのですが、
仲間内に入ってくることが
できない人間がいることで、
その面白さは跳ね上がるのです。
「アメトーーーーク」なんかは、
そうした思考を
うまく突いていると思います。
 
被害妄想と
言われるかもしれませんし、
事実そうなのでしょうけれど、
ハラスメントという言葉が、
「悩まされる」というような、
被害者側由来であることを思えば、
これはやはり、
ある種のハラスメントとも
いえるのではないでしょうか。
 
人種差別問題が
クローズアップされるなかで、
私はいずれ、
このカジュアルな差別についても
問題提起がなされるのでは
ないかと思っています。
いや、もう
問題提起されているかもしれません。

先日、漫才コンビEXITの
どちらかが
(どっちかわからなくて
ごめんなさい!)
「中堅どころの芸人が
プロレスの話題で盛り上がっていても
若い人間はわからないから
笑っていない」というようなことを
言っていました。
これなんかは、
一つの問題提起で
あったような気もします。
 
「笑い」についても、
例えば「写真で一言」という
ジャンルは私も大好きなのですが、
割と発想の在り方として、
「全く関係のない現象に対して、
ある特定の自分が所属する世界の
慣習を当てはめて笑いにする」
というようなパターンが
見受けられます。
このようなパターンの笑いは、
今後どんどん無くなって
いくのではないでしょうか。
笑いの世界も「世代交代」という
意味ではなく、
岐路に立っているように思います。
 
今回書いたことは
全て私のひがみ根性から
出発しているものですが、
仲間外れは、される側にとって、
非常に残酷なものでして、
しかも、している側は
そうした意識が
全くなかったりするのです。

いや、一度でも「される側」を
経験したことのある人間は、
その残酷さを知っているがゆえに、
より残酷にその手法を
用いる場合があるかもしれません。
 
それなりに
長い文章になってしまったけれど、
これは結局、
自覚なく「している側」に
なっている人には
きっと響かないのでしょうね。
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