お願いフルーツ「その他」
ネット依存より隣人への理解を
火曜日から土曜日まで、
「毎日新聞」の2面に
掲載されている記者のコラムが
割と毎回読み応えがあり、
好きなのですが、
とりわけ、火曜日担当の
大治朋子さんという方が
投げかける問題提起は
いつも面白いのです。
他の曜日の方々も
それぞれに面白いのですが、
大治さんの書くことは、
いちばん今、自分が
関心を寄せていることに
近いものだったりするのでしょう。
8月18日のコラムでは
大治さんが、
日本人独特の振る舞いとして、
狭い道を歩いていると、
前の人が後ろの人の気配を察知して、
素早く道を開けること・・
を挙げています。
これについて大治さんは、
「日本人の背中には目がある。
いや、背中にも目を持つよう
家や学校でしつけられる。」
といいます。
大治さん自身、
日本にいる間は
気にならなかったそうですが、
ワシントンやイスラエルに滞在中、
同じような
シチュエーションになっても、
道を開けてくれる人はまずいない・・ことに気づきました。
アメリカやイスラエルのこの感覚は、
つまり、「どいてほしいなら
言ってくるだろう」
という共通する感覚。
対して日本社会では
「人は我慢するもの」という
前提で動いているので、
他者への配慮が
おおいに期待される・・
と書いています。
大治さんは、
慣れてしまえば、
アメリカやイスラエル式は
とても暮らしやすいといいます。
こんなところにも
お国柄が現われるもので、
つくづく日本人は
自分で自分を窮屈に
しているのだなと感じますが、
それはそれで嫌いではないし、
一長一短であり、
どちらが良くてどちらが悪い
という問題ではなく、
ましてやどちらが善で正義であり、
どちらが悪だという
話ではないでしょう。
大切なのは
他者を知るということでしょうか。
自分の価値観が100%正しいのは、
それはそれでよいのですが、
それでいくと、
他者の価値観も
100%正しいと
しなければなりません。
危ういな・・と感じるのは、
いまは生身の人間社会で、
「おかしい」と認定されたことが、
納得できないと、
自分と同じ主義主張をもつ人を
インターネット上に探し求め、
そこで「同志」が見つかったときに
安心してしまう傾向にありますよね。
本当にいるのかどうかも曖昧な
インターネット上の
同志の存在によって
安心するよりも、
生身の人間社会において、
互いの違いを認め合って、
尊重し合うことのほうが、
本来の在るべき姿だと思うのですが、
思いのほか、私たちは、
インターネットに
正解を求めて生きています。
インターネットにも
人の数だけ正解があるっていうことを
ちゃんとわからないといけませんね。
「毎日新聞」の2面に
掲載されている記者のコラムが
割と毎回読み応えがあり、
好きなのですが、
とりわけ、火曜日担当の
大治朋子さんという方が
投げかける問題提起は
いつも面白いのです。
他の曜日の方々も
それぞれに面白いのですが、
大治さんの書くことは、
いちばん今、自分が
関心を寄せていることに
近いものだったりするのでしょう。
8月18日のコラムでは
大治さんが、
日本人独特の振る舞いとして、
狭い道を歩いていると、
前の人が後ろの人の気配を察知して、
素早く道を開けること・・
を挙げています。
これについて大治さんは、
「日本人の背中には目がある。
いや、背中にも目を持つよう
家や学校でしつけられる。」
といいます。
大治さん自身、
日本にいる間は
気にならなかったそうですが、
ワシントンやイスラエルに滞在中、
同じような
シチュエーションになっても、
道を開けてくれる人はまずいない・・ことに気づきました。
アメリカやイスラエルのこの感覚は、
つまり、「どいてほしいなら
言ってくるだろう」
という共通する感覚。
対して日本社会では
「人は我慢するもの」という
前提で動いているので、
他者への配慮が
おおいに期待される・・
と書いています。
大治さんは、
慣れてしまえば、
アメリカやイスラエル式は
とても暮らしやすいといいます。
こんなところにも
お国柄が現われるもので、
つくづく日本人は
自分で自分を窮屈に
しているのだなと感じますが、
それはそれで嫌いではないし、
一長一短であり、
どちらが良くてどちらが悪い
という問題ではなく、
ましてやどちらが善で正義であり、
どちらが悪だという
話ではないでしょう。
大切なのは
他者を知るということでしょうか。
自分の価値観が100%正しいのは、
それはそれでよいのですが、
それでいくと、
他者の価値観も
100%正しいと
しなければなりません。
危ういな・・と感じるのは、
いまは生身の人間社会で、
「おかしい」と認定されたことが、
納得できないと、
自分と同じ主義主張をもつ人を
インターネット上に探し求め、
そこで「同志」が見つかったときに
安心してしまう傾向にありますよね。
本当にいるのかどうかも曖昧な
インターネット上の
同志の存在によって
安心するよりも、
生身の人間社会において、
互いの違いを認め合って、
尊重し合うことのほうが、
本来の在るべき姿だと思うのですが、
思いのほか、私たちは、
インターネットに
正解を求めて生きています。
インターネットにも
人の数だけ正解があるっていうことを
ちゃんとわからないといけませんね。