お願いフルーツ「その他」
TENETも鬼滅の刃も知らない映画好きなおっさん
今月12日、
琵琶湖の冬の使者・コハクチョウが
滋賀県長浜市、
奥びわスポーツの森近くの田んぼに
今シーズン初めて飛来した。
私の実家はすぐ近くだから、
子供の頃は湖岸まで行って、
さほど珍しいものとも思わずに
眺めていたのだが、
そういえば、
バードウォッチングのおじさんたちは
多かったように思う。
これまた近くにある山本山に
越冬のため飛来するオオワシも
バードウォッチャーたちが
よく撮影している。
コハクチョウとオオワシが
やってくる町なのに、
そのありがたみを全く知らずに生きてきた
違いのわからない男なのだ。
いや、どれほど貴重なものでも、
興味のない人にとっては、
所詮、
どうでもよいものであるということか。
三条会商店街の近くに
映画の半券を持っていけば、
お代が100円引きになる、
映画好きのおっちゃんがやってる
喫茶店があるのだが、
先日、そこでコーヒーを飲んでいたら、
全身で「俺、映画すきやねん」と
語るおっさんの客が
入店して、映画好きのお店のおっちゃんに
なんやかんやと
自分の最近観た映画のことを話していた。
(そういう人は「映画好き」を
アピールしたいから、声がでかい)
その客のおっさんは、
TENETのことも
鬼滅の刃のことも知らなかった。
そのおっさんの客の考える
「映画」の範疇には
TENETも鬼滅の刃の劇場版も
入っていなかったのだ。
結局、その客のおっさんは、
映画好きなオレの好きな映画が
好きにすぎないのだ。
もしくは映画好きなオレが好きなのだ。
自分の好きな映画のことは
映画と認めるけど、
自分の知らない映画のことは、
映画だと認めていないのだ。
ああいうのを感性の無駄遣いという。
実にもったいない。
オレのフィルターが強すぎるから、
好きな映画のことも、
かなりオレフィルターで
スクリーニングしてしまっている気がする。
映画だけにな。
私はといえば、
コハクチョウのこともオオワシのことも
知らなかったことを残念に思っている。
自分のなかにある知識と
感性だけを大切にしていては、
宇宙のように広がる外界に
無数に存在する魅力的なサムシングを
つかまえることはおろか、
出会うきっかけを
つかまえることさえできないのだ。
自分のなかにあるものなんぞ、
小さい小さい
塵芥のようなものだと自覚して、
とてつもなく広い世間という外界から、
吸い込めるだけ吸い込んで、
吸い込んでしまったら、もうそこで、
それは塵芥になってしまうのだが、
塵芥を一つずつ一つずつ集めていく姿勢が、
謙虚を生み、感性を研磨できるに違いない。
昔の人は、その姿勢のことを
塵も積もれば山となると
表現したのではあるまいか。
夏目漱石『こころ』のなかの名言
「精神的に向上心のない者は馬鹿だ」
というのも、
きっと同じニュアンスの言葉なのだろう。
琵琶湖の冬の使者・コハクチョウが
滋賀県長浜市、
奥びわスポーツの森近くの田んぼに
今シーズン初めて飛来した。
私の実家はすぐ近くだから、
子供の頃は湖岸まで行って、
さほど珍しいものとも思わずに
眺めていたのだが、
そういえば、
バードウォッチングのおじさんたちは
多かったように思う。
これまた近くにある山本山に
越冬のため飛来するオオワシも
バードウォッチャーたちが
よく撮影している。
コハクチョウとオオワシが
やってくる町なのに、
そのありがたみを全く知らずに生きてきた
違いのわからない男なのだ。
いや、どれほど貴重なものでも、
興味のない人にとっては、
所詮、
どうでもよいものであるということか。
三条会商店街の近くに
映画の半券を持っていけば、
お代が100円引きになる、
映画好きのおっちゃんがやってる
喫茶店があるのだが、
先日、そこでコーヒーを飲んでいたら、
全身で「俺、映画すきやねん」と
語るおっさんの客が
入店して、映画好きのお店のおっちゃんに
なんやかんやと
自分の最近観た映画のことを話していた。
(そういう人は「映画好き」を
アピールしたいから、声がでかい)
その客のおっさんは、
TENETのことも
鬼滅の刃のことも知らなかった。
そのおっさんの客の考える
「映画」の範疇には
TENETも鬼滅の刃の劇場版も
入っていなかったのだ。
結局、その客のおっさんは、
映画好きなオレの好きな映画が
好きにすぎないのだ。
もしくは映画好きなオレが好きなのだ。
自分の好きな映画のことは
映画と認めるけど、
自分の知らない映画のことは、
映画だと認めていないのだ。
ああいうのを感性の無駄遣いという。
実にもったいない。
オレのフィルターが強すぎるから、
好きな映画のことも、
かなりオレフィルターで
スクリーニングしてしまっている気がする。
映画だけにな。
私はといえば、
コハクチョウのこともオオワシのことも
知らなかったことを残念に思っている。
自分のなかにある知識と
感性だけを大切にしていては、
宇宙のように広がる外界に
無数に存在する魅力的なサムシングを
つかまえることはおろか、
出会うきっかけを
つかまえることさえできないのだ。
自分のなかにあるものなんぞ、
小さい小さい
塵芥のようなものだと自覚して、
とてつもなく広い世間という外界から、
吸い込めるだけ吸い込んで、
吸い込んでしまったら、もうそこで、
それは塵芥になってしまうのだが、
塵芥を一つずつ一つずつ集めていく姿勢が、
謙虚を生み、感性を研磨できるに違いない。
昔の人は、その姿勢のことを
塵も積もれば山となると
表現したのではあるまいか。
夏目漱石『こころ』のなかの名言
「精神的に向上心のない者は馬鹿だ」
というのも、
きっと同じニュアンスの言葉なのだろう。