お願いフルーツ「その他」

短編小説 『訴訟』

短編小説  『訴訟』
汗を流していました。
制御できないほどに。
それは とめどなく
滴り落ちてきました。
八月下旬、夏の終わり。
送り火も終わり、お精霊さんたちも
川の向こうへ
帰っていった夏の終わり。

容赦なく私の身体を覆うのは
温度よりも湿度。
蝉の鳴き声がする。
暑い暑い暑い暑い暑い。
蝉たちは自分の声のせいで
余計に暑くなって余計に声を
荒らげているのではあるまいか。
その手のおじさんを
私は何人か知っている。

聞き分けのないおじさんたち。
自己主張しかせず、
自分のルールで動くおじさんたち。
蝉をそのような生き物に
例えてしまうほどには
意識があるのか、むしろ無いのか。

頭の上に突き刺さる熱射。
身体に纏わりつく湿度湿度湿度。
自問自答するのは
可愛いあのコのことでありたい、
でも思い浮かぶのは
あの自分のルールでしか動かない
おじさんの群れ、群れ、群れ。
羊の代わりに数えたら
悪夢にしかならないでしょう。

そういえば 昨日の夜は
大好きな あのコを叱る夢を見た。
ご丁寧にありがとうございます、
なんて返しやがるものだから、
愛と憎を行き来した夢でした。

雨上がりの午後二時過ぎ、
アスファルトが私に、
頼んでもいないのに返してくる、
蒸れ、蒸れ、蒸れ。

私は危ないと感じました。
このまま 何もしなければ、
ひょっとすると 私は
お精霊さんを追いかけて
川の向こうへ行くのではないか。
あの川は水が冷たそうだね。
とりあえず、
ひとしきり喉を潤したあとは
両手で顔をバシャンとしようか。

いかん、いかん。
いま、少しばかり、
向こう側が見えた気がする。
とにかく 斯様なときには
水分補給であるということは
毎日 しつこく聞いているものですから
私は 朦朧となりながら
目的地の資料館へと急ぐのですが、
足はもつれ、こんな時に限って
靴紐がほどけたことに腹が立ち、
少しばかり Shitと発しましたところ、
思いのほか 声が通ったようで、
車道を挟んで向こう側のご婦人が
少しビクついておったのが見えた。

靴紐を結びなおし、
信号を渡り 向こう側へ行くと、
どうやらご婦人も私と同じ
資料館へ向かうつもりらしい。
なだらかな坂になっており、
私は その坂にさえ憤りを覚え、
いよいよ一歩も前へ
進めることができずにいましたが、
冷房の効いた
資料館のことを思い浮かべ、
中学生の頃の炎天下の野球部の
部活のことを思い出し、
木陰で休んでいた私を
根性なしと蔑んだあの忌まわしい
先輩の顔と声を思い出し、
いま、ひとたび声を張り上げ、
坂を上り、資料館へ入ってみると、
入り口に自動販売機がありましたので
ここにきて、
ようやく私も一息つけると、
震える手で財布を開け、
その後で自動販売機の値段のところを
確認してみたところ、
すべての飲料が 通常の価格よりも
20円高く値段が設定されており、
この危機的状況にあっても、
その理不尽に納得できなかった私は
購入を断念することを決めた途端に
目の前が真っ暗になり、
そこからのことは記憶にありません。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

今日午後2時30分頃、
資料館の入口で
男性が泡を吹いて
倒れているのが見つかり、
病院に搬送されましたが、
数分後に亡くなりました。

亡くなったのは涌井慎さん39歳。
死因は熱中症であるとみられます。

遺族は 自動販売機の価格を
20円高く設定した資料館を相手取り、
訴訟を起こす構えです。

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資料館の自動販売機の価格設定が
20円ほど高かったせいで、
こんなことを
考えてしまったのですが、
仮に本当に 20円高いおかげで
飲み物を買わずに
熱中症で死んだとしたら、
世間は 死んだおじさんを
咎めるでしょうか、
それとも 20円高く価格設定した
自動販売機業者か、
あるいは資料館を咎めるでしょうか。

写真は20円高かった十六茶。

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