お願いフルーツ「その他」

目が見えへん

目が見えへん
昨晩 ラグビーを見ている妻が
「目が見えへん」と呟きました。

正しい日本語なのですが、
よくよく考えてみると、
「見えへん」のは「目」ではなく
「目で見ているもの」が
「見えへん」わけです。

同じような表現に
「お湯が沸いた」があります。
沸いたのはお湯ではなく水です。
「ご飯が炊けた」もおかしいですね。

こういう表現はおそらく、
他にもいろいろあると思います。

「目が見えへん」については
主語が隠れているのも
ややこしいポイントです。
「私は目が見えない」ですが、
わざわざ「私は」を付ける人は
いないと思います。

ところが、
自分の主張を通したいときや、
自分の話を聞いてほしいときなどに
「僕は◯◯です」「私はこうだ」と
やたらと主語を
強調する場合もあります。
想像ですが、戦後の貧しい頃は
あまりこうした物言いは
なかったのではないかと思います。

そういった「我が我が」が
ある種「はしたない」と
されてきた土壌もあるでしょう。

いまは昔に比べて
個を大事にする風習が
広まったため、
誰もが気軽に自分のことを
主張できるように
なった気がします。

そんなことをふんわりと
考えていながら
『蟹工船』を読んでいたところ、
この小説は全く
「私は」が出てこないので、
初見、ちょっとわかりづらさが
あるのですが、
これは過酷な労働を
強いられている工作員には
「私」を主張する権利さえ、
なかったことを
表しているのではないかと、
思えたのでした。

しかし何回読んでも
暗くなるお話です。
程度の差こそあれ、
あんまり
変わってない気もするけど。
TOP