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短編小説『通学路』

短編小説『通学路』
年に一回ないし二回、
帰省しています。
去年の三月に父が亡くなったので
実家には母親一人なものですから
父が亡くなった当初は
こまめに帰り、
母親の面倒を
見なければならないと、
また、三人兄弟のあるうち、
それをするのが私であることに
優越感といいましょうか。

「だって僕しかいないでしょ」
といった気持ちに
自分自身が満足したいという
気持ちから、
週に一度ほどは帰省しようと
思ってはいたのですが、
実際問題、私の仕事が
それを許してはくれませんでした。
大晦日も元日も帰省できず、
結局三日を待たねばならなかった
ような仕事をしていながら、
よく週に一度帰省しようなどと
考えたものです。

思いのほか、
母親が元気であることも、
別に帰らなくてもよいか、
という気持ちにさせました。
父親がいなくなったことで、
どこか、せいせいしている、
という雰囲気があります。

もしも父親が残されたなら、
こんなことは無かったでしょう。
抜け殻のようになり、
これまでいかに母親に
支えられていたかを痛感し、
何もできない己を恥じ、
後を追うようにして、
早く逝ってしまうのでしょう。

だからこそ、
平均寿命は女性のほうが、
びっくりするくらい長いのです。

実家はもともと、
琵琶湖の湖岸にありました。
夏は歩いて二分もしないうちに
海水浴ならぬ湖水浴へ
出かけることができました。
いまは子供が少なくなったからか、
誰も泳ぐ者がいないため、
町内で湖水浴用に整備するのが
バカらしくなったのでしょう。
すっかりほったらかしになり、
藻が生え放題生えており、
夏はそれらが腐るため、
異臭を放つ次第です。

そのような夏に異臭の漂う
湖岸から、
歩いて30分ほど、
通っていた小学校のすぐ近く、
通学路沿いの山の麓に
実家が引っ越したのは、
私が大学に入学して、
京都にやってきてからのことです。

あれからもう二十年ほど
経つのでしょうか。
引っ越してからの実家にも
何度も帰省していますから、
もう、すっかりと、
こちらが私の実家になりましたが、
齢四十にたどり着くまでに、
自分の歩んできた道を
もう一度歩いてみたいと、
なぜだかそんな気持ちになり、
今日は「いまの実家」から、
「昔の実家」へと、
かつて通った通学路を通りながら
歩いてみることにしました。

「いまの実家」は
学校の近くにあるので、
「帰り道」を歩くことになります。
小学生が歩けば
三十分ほどかかります。
同じ村に住むお友達と毎日毎日、
実に六年間、この道を
歩き続けたわけです。

あれから三十年ほど。
これまでにも
機会はあったはずなのに、
通学路を歩き直すのは
はじめてのことです。

帰り道は前半がほぼ山の麓です。
かつて中腹のあたりを眺めたら
熊の目がキラリと光っているのが
見えたような気がしました。
おそらく、あれは
子供の目に見えた
錯覚だったでありましょうが、
時は令和二年、
山から締め出された熊たちが
街に出てくることは
さほど珍しいことでは
なくなりました。
昔は感じることのなかった
緊張を少しばかり抱えながら、
歩いていくと、
朧でさえなかった記憶が
突如として鮮明になるのです。

ふいに思い出したのは
権兵衛穴のことでした。
通学路の山の麓に在った
人が一人入れるかどうかくらいの
小さな洞穴を私たちは
権兵衛穴といって、
例えるならお地蔵様のように
神聖化していました。

戦時中に防空壕として
使われていたとか、
何に使っていたのかわからないが
権兵衛さんが使っていたとか、
穴の奥まで入っていくと、
宇宙に繋がっているんだとか、
いろんなことを話しながら、
ついに一度も誰一人として、
権兵衛穴の中に
入ることはしませんでした。
子供ながらに、誰もがそこは
越えてはいけない一線だと
わかっていたのです。

いま思うと、
一線を越えない文化を
みんな尊んでいたのだろう。
越えることの面白さではなく、
越えないことの面白さを
私たちは共有していました。
いまの時代とは異なる
不文律がしっかりと存在していた
美しい時代でありました。

その権兵衛穴が、
今日は見つかりませんでした。
子供の純粋な心がなければ
見つからないのか。
はたまた、時代は変わり、
どこかで誰かが、あの穴の中へ
踏み込んでしまったため、
罰が当たり、
穴が塞がれてしまったのか。

さらに歩くと、
通学路にはトイレが無いことを
思い出しました。
村の住民同士の繋がりが
深いこともあってか、
このあたりには
公衆トイレがない。
そういえば子供の頃は
よく知らないお家の戸を叩いて
トイレを借りたものです。

それもできないほどに
切迫した状態だったとき、
やむを得ず、一度だけ、
バス停のなかで、
用を足してしまいました。
お友達二人に囲まれて、
「堰を切る」とは、
あのようなことを言うのでしょう。
翌日も知らないフリをして
そのバス停を通り過ぎました。

いや、
本当に忘れていたのではないか。
当時、そのことを後日、
誰かに蒸し返されるようなことも
なかったような気がする。
それのことを面白いとは
誰も思っていなかったのです。

なんということでしょう。
私がバス停で堰を切ったように
うんこをしたことは、
権兵衛穴のように
ある種神聖なるものとして、
扱われていたのだ!!

それにつけても、
いまという時代の下衆なことよ。
もしもあれが現代ならば、
堰を切ったところを
動画配信され、SNSにアップされ、
世界中から
笑い者にされるでしょう。
バス停でうんこをした私か、
いまの世の中か、
いったいどっちが汚いのか。

憤りを感じながら、
またしばらく歩いていくと、
何も変わらない通学路なのに、
世の中はどんどんと、
面白さを理解できない、
あさはかな、
なんとも刺激に弱い、
脆弱な世の中へと、
変貌してしまったのだということが
情けなく思われ、
私は人目も憚らずに
号泣してしまいました。

それは喜怒哀楽でいえば、
怒りよりの哀でした。
こんなところに使う例えに
いまのあさはかな世の中で
使われる「ありよりのあり」
などという言葉からの
影響が出てしまっていることにも
憤りを覚えてしまいます。

山の麓を通り過ぎ、
中学生の頃に初めて
お付き合いをしたHさんの家も
通り過ぎ、
田んぼと田んぼの間を通る
吹きっさらしの道が続きます。

この通学路が何も変わらないうちに
いつからこんな世の中に
なってしまったんだろうか。
私は無理やりにでも、
時を巻き戻してやりたくなり、
冷たい風の吹く道の、
車道と歩道を隔てる白線を
跨ぐ感じでズボンを下ろし、
下半身をあらわにして、
思い切り力んでみました。

先ほどから我慢していた
小便がアスファルトを濡らしたとき
私はやってはいけないことを
やってしまったときの高揚感で、
おちんちんが元気になったことを
確認しました。

体中が熱くなり、
この何も変わらない通学路が
一気に現代に寄ってきたことを
感じながら、力を込め、
体内にある全てのうんこを
出してしまいました。

出し切ったときの私は、
紙がないとか、
恥ずかしいとか、
そういうことを思う以前に、
「勝った」と思いました。
おちんちんはさっきよりも、
上を向いていました。

アンチテーゼというよりは
ウンチテーゼではないか。

バクバクバクバクバクバクバクバク。
心臓の音が聞こえます。
あの時のバス停でも
この音が聞こえていたはずです。
パンツとズボンを履き直し、
何事もなかったように
また私は通学路を
歩きはじめました。


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