お願いフルーツ「その他」
1月8日の新聞コラム「七草がゆ」
涌井慎です。
趣味は新聞各紙のコラムを
読むことです。
新聞のコラムの何が好きか、
いろいろ理由はありますが、
一つ挙げるとするならば、
季節を感じさせてくれるところ。
今日は数紙が春の七草について
書いておりました。
小倉百人一首にある
光孝天皇の和歌を引用したのは
「西日本新聞」です。
君がため
春の野に出でて
若菜摘む
わが衣手に
雪は降りつつ
「右の歌は、摘んだ若菜を誰かに贈る際に添えたものだとされる。「あなたのために野に出て若菜を摘みました。雪が降って寒かったけど」と、ちょっと押し付けがましいが、相手への思いは伝わる。正月7日に食べる七草がゆは、この風習が起源という」(括弧内引用)
ふーん。
でも、どうして
その風習が生まれたのかしら。
「昨日7日は人日の節句、1年の無病息災を願い、七草がゆを食べるのが習わしとされている。セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザなど。炊いたおかゆと七草が混ざり合い、優しい味わいが口に広がる。年始の酒席で弱った胃を回復させることが目的とも言われている」
(括弧内「大阪日日新聞」引用)
うーん、
確かにそうなんだろうけど、
後付けのような気もする。
「年末年始に疲れた胃腸を休める健康食の側面が強調されがちだが、かつては露地野菜が出回らぬ冬に、セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロの春の七草で補う意味もあった。」
(括弧内「北海道新聞」引用)
つまり、
野菜食べたいけど、
野菜出回ってないね。
出回ってないなら、摘みに行くか。
4種類見つけたぞ。
ダメだ、4はダメだ。
4つ見つけたなら、
せめてあと1つ見つけて
5つにしないと縁起が悪い。
何?2つ見つけてしまったって?
それならなんとしても、
あと1つ探して7つにしよう。
そうしたら数も縁起がよくなる。
正月早々だからね、
縁起のことも気にしておかないと。
それに正月7日だからね。
7日に7種類なら語呂もいい。
秋にも七草ってのがあるからさ、
これを春の七草ってことにしよう。
秋の七草は
誰か昔の人が和歌にしてたな。
七五調にすれば覚えやすいよ。
ふむ、では少々待たれよ。
セリナズナ、
ゴギョウハコベラ、
ホトケノザ、
スズナスズシロ、春の七草
よっ!決まりましたな!
というようなお話が
あったかどうかは知りませんが、
何より最初は
切実な「渇き」があったのでしょう。
「渇き」を潤したらば、
奇遇にも、その日は正月7日めで
それまで宴会続きで
胃腸がただれていたものだから、
七草を胃腸に優しい
お粥にしてみたのでしょう。
根本の「渇き」が無くなったいま、
カタチだけ「七草がゆ」が
残っているのではなく、
後付けにしても、
疲れた胃腸を休めるという
大義名分がわざとらしくなく
聞こえるのは日本人の知恵ですよね。
その「こじつけ感」が素晴らしい。
何かと何かを無理やりなのに、
無理なく、くっつけることで、
新しい文化を生み出すのが、
日本の古くからのお国芸です。
何も無いところからは
何も生まれません。
何かと何かを組み合わせることで
新しい何かが生まれるのです。
それが文化というものでしょう。
古いものに対する畏怖がなければ、
その行為は成り立ちません。
古典に学ぶとは
きっとそういうことなのでしょう。
趣味は新聞各紙のコラムを
読むことです。
新聞のコラムの何が好きか、
いろいろ理由はありますが、
一つ挙げるとするならば、
季節を感じさせてくれるところ。
今日は数紙が春の七草について
書いておりました。
小倉百人一首にある
光孝天皇の和歌を引用したのは
「西日本新聞」です。
君がため
春の野に出でて
若菜摘む
わが衣手に
雪は降りつつ
「右の歌は、摘んだ若菜を誰かに贈る際に添えたものだとされる。「あなたのために野に出て若菜を摘みました。雪が降って寒かったけど」と、ちょっと押し付けがましいが、相手への思いは伝わる。正月7日に食べる七草がゆは、この風習が起源という」(括弧内引用)
ふーん。
でも、どうして
その風習が生まれたのかしら。
「昨日7日は人日の節句、1年の無病息災を願い、七草がゆを食べるのが習わしとされている。セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザなど。炊いたおかゆと七草が混ざり合い、優しい味わいが口に広がる。年始の酒席で弱った胃を回復させることが目的とも言われている」
(括弧内「大阪日日新聞」引用)
うーん、
確かにそうなんだろうけど、
後付けのような気もする。
「年末年始に疲れた胃腸を休める健康食の側面が強調されがちだが、かつては露地野菜が出回らぬ冬に、セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロの春の七草で補う意味もあった。」
(括弧内「北海道新聞」引用)
つまり、
野菜食べたいけど、
野菜出回ってないね。
出回ってないなら、摘みに行くか。
4種類見つけたぞ。
ダメだ、4はダメだ。
4つ見つけたなら、
せめてあと1つ見つけて
5つにしないと縁起が悪い。
何?2つ見つけてしまったって?
それならなんとしても、
あと1つ探して7つにしよう。
そうしたら数も縁起がよくなる。
正月早々だからね、
縁起のことも気にしておかないと。
それに正月7日だからね。
7日に7種類なら語呂もいい。
秋にも七草ってのがあるからさ、
これを春の七草ってことにしよう。
秋の七草は
誰か昔の人が和歌にしてたな。
七五調にすれば覚えやすいよ。
ふむ、では少々待たれよ。
セリナズナ、
ゴギョウハコベラ、
ホトケノザ、
スズナスズシロ、春の七草
よっ!決まりましたな!
というようなお話が
あったかどうかは知りませんが、
何より最初は
切実な「渇き」があったのでしょう。
「渇き」を潤したらば、
奇遇にも、その日は正月7日めで
それまで宴会続きで
胃腸がただれていたものだから、
七草を胃腸に優しい
お粥にしてみたのでしょう。
根本の「渇き」が無くなったいま、
カタチだけ「七草がゆ」が
残っているのではなく、
後付けにしても、
疲れた胃腸を休めるという
大義名分がわざとらしくなく
聞こえるのは日本人の知恵ですよね。
その「こじつけ感」が素晴らしい。
何かと何かを無理やりなのに、
無理なく、くっつけることで、
新しい文化を生み出すのが、
日本の古くからのお国芸です。
何も無いところからは
何も生まれません。
何かと何かを組み合わせることで
新しい何かが生まれるのです。
それが文化というものでしょう。
古いものに対する畏怖がなければ、
その行為は成り立ちません。
古典に学ぶとは
きっとそういうことなのでしょう。