お願いフルーツ「その他」
太陽日記 3月29日
鴨長明が方丈記を
書き記しておいたのと
同じようなことが
私にできるのか、わからないが、
この切迫感のなか、
拙い表現力ではあるが、
令和二年のコロナ禍について
記しておきたいと思う。
クラスター、
オーバーシュート、
ロックダウン。
カタカナばかり使うなと、
河野太郎がtweetしたのが数日前。
それを新聞が記事にするのは
翌日ということは珍しく、
だいたい二日三日が経つ。
新聞を二次利用するラジオで
DJが話題にするのは
さらに後ということになる。
ラジオに即時性など存在しない。
Twitterでは
こんなことが言われてるけれど
共同通信から
ニュースとして入ってくるまでは
何も言わないでください。
という世界なんだから無理もない。
もともとが、
誰かのせいにするメディアなのだ。
そういう人間ばかりが
育つのも無理はない。
こんな風に悪口ばかり、
書いてしまうのも、
この頃のコロナ禍のせいだろうか。
今日は安倍ちゃんが、
また記者会見をしたが、
見てはいない。
Twitterを見れば、
だいたいどんなことを言ったのか、
どんな態度だったのかがわかる。
また何も中身のない
会見だったらしい。
募っているが募集はしていないし
桜は見てるが花見ではないし
レストランに
行ったらいけないのかと
逆ギレするような人が
何か緊急の会見を開いたところで
何も期待はできない。
Twitterは
日に日に人々の表現が、
ギスギスとして、
尖ってきており、
日々の鬱憤というものは、
出やすいところから
出るのであるなぁと感じる。
夫婦喧嘩なども
増えているのではないか。
鬱憤は出しやすいところに出る。
甘えているものに出る。
Twitterの場合は、
所詮Twitterだし、
という甘えがそうさせるのだろう。
これからますます、
社会的弱者に対する扱いは
ひどくなっていくのだろう。
どうにも太刀打ちできない
コロナという強敵を前に
強さを誇示せねばならないとき、
強敵に立ち向かうことで、
ではなく、
自分より弱いものを
抑えつけることで、
強さを見せつけるという人間が
存在する、ということを
私は残念ながら知っている。
自信がある人は黙っている。
自信がない人は
自分のやり方を押しつける。
自分こそ正義であると、
我々を抑えつけにかかる。
だいたいつまらない人間だ。
五十数年生きてきて得た
自分なりの正義が
正しいことを証明するために
自分より社会的地位の低い人間に
その自分なりの正義を
ひけらかすことでしか、
自分の人生を自分さえ、
認めることができない、
悲しい人間なのだと思えば、
哀れみも生まれてこようものだが、
そのような感情は
全くもって生まれてはこず、
とにかく私の人生の
限られたスペースに
入ってくるんじゃないよと
いつも思っている。
いまはなんでも、
全てコロナのせいにできるから
実は恩恵を受けている人も
いるのかもしれない。
かくいう私もその一人かもしれない。
嫌いな人間について、
どうして嫌いなのか、
ということをコロナ禍の
どさくさに紛れて、
こうして記録しているのだから
書き記しておいたのと
同じようなことが
私にできるのか、わからないが、
この切迫感のなか、
拙い表現力ではあるが、
令和二年のコロナ禍について
記しておきたいと思う。
クラスター、
オーバーシュート、
ロックダウン。
カタカナばかり使うなと、
河野太郎がtweetしたのが数日前。
それを新聞が記事にするのは
翌日ということは珍しく、
だいたい二日三日が経つ。
新聞を二次利用するラジオで
DJが話題にするのは
さらに後ということになる。
ラジオに即時性など存在しない。
Twitterでは
こんなことが言われてるけれど
共同通信から
ニュースとして入ってくるまでは
何も言わないでください。
という世界なんだから無理もない。
もともとが、
誰かのせいにするメディアなのだ。
そういう人間ばかりが
育つのも無理はない。
こんな風に悪口ばかり、
書いてしまうのも、
この頃のコロナ禍のせいだろうか。
今日は安倍ちゃんが、
また記者会見をしたが、
見てはいない。
Twitterを見れば、
だいたいどんなことを言ったのか、
どんな態度だったのかがわかる。
また何も中身のない
会見だったらしい。
募っているが募集はしていないし
桜は見てるが花見ではないし
レストランに
行ったらいけないのかと
逆ギレするような人が
何か緊急の会見を開いたところで
何も期待はできない。
Twitterは
日に日に人々の表現が、
ギスギスとして、
尖ってきており、
日々の鬱憤というものは、
出やすいところから
出るのであるなぁと感じる。
夫婦喧嘩なども
増えているのではないか。
鬱憤は出しやすいところに出る。
甘えているものに出る。
Twitterの場合は、
所詮Twitterだし、
という甘えがそうさせるのだろう。
これからますます、
社会的弱者に対する扱いは
ひどくなっていくのだろう。
どうにも太刀打ちできない
コロナという強敵を前に
強さを誇示せねばならないとき、
強敵に立ち向かうことで、
ではなく、
自分より弱いものを
抑えつけることで、
強さを見せつけるという人間が
存在する、ということを
私は残念ながら知っている。
自信がある人は黙っている。
自信がない人は
自分のやり方を押しつける。
自分こそ正義であると、
我々を抑えつけにかかる。
だいたいつまらない人間だ。
五十数年生きてきて得た
自分なりの正義が
正しいことを証明するために
自分より社会的地位の低い人間に
その自分なりの正義を
ひけらかすことでしか、
自分の人生を自分さえ、
認めることができない、
悲しい人間なのだと思えば、
哀れみも生まれてこようものだが、
そのような感情は
全くもって生まれてはこず、
とにかく私の人生の
限られたスペースに
入ってくるんじゃないよと
いつも思っている。
いまはなんでも、
全てコロナのせいにできるから
実は恩恵を受けている人も
いるのかもしれない。
かくいう私もその一人かもしれない。
嫌いな人間について、
どうして嫌いなのか、
ということをコロナ禍の
どさくさに紛れて、
こうして記録しているのだから